今日の箇所も、前回の流れからの続きで、イエス様がファリサイ派たちに対して叱責されているところの続きになります。
今日の箇所も非常に難解で厳粛な部分なので、イエス様が伝えたかった事は何か?それを祈り求めてデボーションを行っていきます。
まずこの話は「穢れた霊がある人から出ていく~」とあり、その霊は砂漠をさまよったが結局住み着く場所がなかったので我が「家」に戻ろう、とあります。ですので、ある人は「家」として譬えられています。
ところが戻ってみると、「その家は空き家になっており、掃除をして整えられていた」とあります。ここを読んで、その人は悪霊とともに悪いものを出し、すっかり清められたことをイメージできます。
しかし、その悪霊はなんと自分よりも悪い七つの霊を連れてきてその家に住み着く、というのです!これはいったいどういう事なのでしょうか?
そしてイエス様の話の結びは、「その人の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう」とあり、このようにイエス様がこの時代のユダヤ人の律法学者や祭司たちのことを「家」に譬えて、今後起ることをはっきり預言されている点が、今日の箇所を理解する上で注目すべきか点かと思います。
彼らはバビロン捕囚以降、様々な大国間の争い、ギリシヤのヘレニズム文化の影響などを受けて迫害に遭い、ユダヤ民族としてのアイデンティティーを強固にしようと、また清いものしようと必死でした。パリサイ派やサドカイ派などの多くの体制が生まれましたが、選民思想もそういった背景から生まれたとのことです。そこで極端な律法主義に陥ったのです。それが彼らの中に神が住まわれない=空き家の状態です。見た目はきれいで立派ではあるがその中に一番重要であるイエス様がお住まいになられていない…、そのような状態です。
彼らはイエスが行った癒しや復活の業、愛の行いの業を見ても、イエスのたとえ話を聞いても、イエスの犠牲の十字架で遂げた死を見ても、またステパノのイスラエル民族の悔い改めとイエスの証を聞いても、その聖霊によって導かれたしるしを一切受け入れず、それを殺してしまいました。この事の顛末をイエス様はこのたとえ話で預言されたものと思われます。聖霊を冒涜する罪は一切許されません。彼らはこのように民族の代表が罪に定められたため神の民としての恩恵期間は終了しました。もっと多くの悪い霊が住み着く結果となったのです。その後、異邦人に福音が伝わる結果となり今に至ります。
キリスト教では宗派や教理によって聖書の預言やイエス様の譬え話の解釈が違うところが多くある事は事実です。でもどの解釈が正しいかは、自分が聖霊様に真理が悟れるようにまず祈りもとめ、歴史背景を調べたり、聖書を聖書で解釈は原則ですが、最終的にはイエス様が福音書でおっしゃっていることの意味・文脈を重ねて読んでいくしかないのだと思います。聖書はすべてをイエス様について書かれているのですから。
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
ルカによる福音書 24:27
そのためにイエス様が人間としてこの世に住んでくださったのです。
その原点を忘れずに、これからもデボーションを続けていきたいと思います。