Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~木とその実~ [マタイ 12:33-37] 

今日の箇所も、前回のベルゼブル論争からの話の続きです。イエス様はファリサイ派の人々の心を見抜いて、今度は木とその実のたとえを用い、わかりやすい言葉で叱責を続けられました。

木の良し悪しは、その結ぶ実でわかる

なんという単刀直入なみ言葉でしょう。

「実」は、その人から出てくる「言葉」に譬えられています。

ということは、「木」は言葉を発する私たち「人間」のことであることは明らかです。

(動物は言葉を発しません)

木の中身が悪いもの(霊)に満たされていれば、それに似た性質の実がなり、良いもので満たされていればそれに似た実がなる。それはいたって必然的な、自然の法則です。

いくら木の外側を美しく良いものにしても、実(心)までは美しく整えることはできない…。

※このことは私たちも小さいころから物語などを通じて知っている点です。

しかしここでイエス様は、木の性質を評価するためには、その人の出しているその実(言葉)を評価すれば良い、とまでおっしゃっています。

さらにイエス様は

「人は自分の話したつまらない言葉(=idle word, 意味がなく誇張された話、雑談など)についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」

とまで断言されています。これはファリサイ派のみに限定されていることでなく、全人類に適用されることです。

これほど言葉というのは、人間のみならず神の評価の物差しになる重要なもの、ということです。

よくよく考えてみると、心にある思いがそのまま言葉によって次々とあふれ出しそれを止めることができない…、という経験は多かれ少なかれ誰もがしていると思います。私の心を制することができないため、結果的に言葉を制することができない、という経験。

悪い言葉が凶器となって、人々を傷つけ、時にはその死にまで至らしめる、というニュースも最近本当によく聞きます。それほど人間にとって、言葉を制するのは非常に困難であり、両刃の剣となるということです。

この言葉についての解決策については、本日のイエス様の譬えにもあるように、木の中身を神の良い霊で満たしていただくことです。

本当にこれしかありません。しかしこの方法は、自分自身の努力では残念ながらできませんが、祈って、良い霊である聖霊様で満たしていただけるよう、ただ熱心に祈り求めれば与えられるとみ言葉で約束されています。

祈りのニーズの背景には、このような切実な問題もあるからこそ、なのです。

今日も、器である木が良い実を結ぶため、1人1人の言葉を制するその心が変えられていきますように。