Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~神が選んだ僕~ [マタイ 12:15-21]

安息日に手の萎えた人をいやしたイエス様をファリサイ派が殺そうとしていたことを知り、イエス様は会堂を出られました。でもそこにはすでに大勢の群衆がイエス様を待ち構えていました。もはやユダヤ人だけが福音宣教の対象ではなかったのです。異邦人もイエス様のうわさを聞いて、大勢集まっていたのでした。

エス様はそこでも病人を次々に癒されました。そして、癒しの業のことは皆に言いふらさないようにと言いつつ、そのような状況の中でイザヤの美しい預言の言葉を述べられました。

 

見よ、わたしが選んだ僕、

わたしの心にかなう、愛する者。

わたしは彼にわたしの霊を授け、

そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。

わたし=天の父。僕=イエス様。わたしの霊=聖霊様。

エス様がバプテスマを受け宣教活動を始められた時の光景で、キリスト教の神秘でもあり真髄でもある、この「三位一体の神」とその関係性が述べられています。

僕であるイエス様は、異邦人に福音が述べ伝えることが予め預言されていました。

 

彼は争わず、叫ばず、

またその声を大路で聞く者はない。

これはイエス様の宣教スタイルとも言えると思います。争うことなどは論外であり、見せかけのインパクトやアテンションも必要ありません。真に飢え乾く人々はイエス様が静かで慈悲深く語られるみ言葉を聞くだけで十分理解でき、真理を悟ることができるのです。

 

彼が正義に勝ちを得させる時まで、

いためられた葦を折ることがなく、

煙っている燈心を消すこともない。

正義に勝ちを得させる時、とは究極的には人類の救いの完成の時だと思います。

それまで人はたとえ信仰を持っても罪の力によって束縛されたり、苦しんだり、みじめになったりします。そういう私たちの弱った存在を「いためられた葦」「煙っている燈心」と表現されています。これらは世の中では全く役に立たなそうで、すぐ捨てられますが、イエス様はそういう方ではないことを示しています。救いの完成の時まで、弱い私たちを愛を持って大切に見守っていてくださり、生かしてくださるという大きな希望が与えられているのです。

 

異邦人は彼の名に望みを置くであろう

そうです。この預言は成就しています。今日、世界中の多くの人が毎日イエスの名によって天の父に祈り、イエスに人生をささげ、聖霊様の導きを求めながらイエスの道を歩んでいます。私もその1人に加わりました。

これからもこの預言が完全に成就していきます。今日の貴重な聖書箇所を胸に抱き、1人でも多くの方にイエス様の福音が伝わりますようにと祈っていきたいです。