Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~悔い改めない町を叱る~ [マタイ 11:20-24]

今日の箇所はイエス様がバプテスマのヨハネの話をされた話の続きになります。

屈斜路湖

今までイエス様は病人の癒しをはじめ、人間の本質的な罪の赦しと改心に至るまでの多くの奇跡(しるし)を行われてきました。それにより神のこの世に対する威厳と支配をもお見せになりました。

しかし、その明確なしるしを見ても、人々は真の悔い改めまでには至りませんでした。イエスを神である主と認め、自分たちが苦しめられてきた今までの罪の本質に気づくこと。そしてイエスに出会ったこれからは、何よりもまず天の国を求め、罪自体を憎み、神のため、神の栄光をあらわすために生きる、という悔い改めの心までには至りませんでした。相変わらず、自分の利益、安全、自己の計画、思い、健康、家族、経済などが神の力によってそれらが豊かにされることを望むことが最優先されていました。天に入る準備のために、生まれ変わっていなかったのです。

このような人々の心の鈍い状態に対し、イエスは嘆きながら、悲しみのうちに次のように叱責されます。

コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。

コラジンとベトサイダは、ガリラヤ湖周辺にあった古代都市でした。イエス様はこのガリラヤ地域で生まれ育ち、30歳で伝道を開始されました。またユダ以外の11人の弟子たちが招かれたのも、このガリラヤの地でした。イザヤ書では「ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」とあり、確かにここでイエス様はご生涯の中で一番長い時間を過ごされ伝道を開始された舞台としてこの預言が見事に成就しました。しかし、ここではこの祝福を受けたガリラヤの地も、今後悔い改めないと「陰府(よみ)にまで落とされるのだ」とまでおっしゃっています。

神様は聖書の中で、私たちをこの悔い改めに導かせるための、悲しみを交えての切なる叱責を私たちに何度も繰り返し伝えています。特に預言書にはそれが多く書かれています。私がこの叱責のみ言葉に出会うとき、いつも身を引き締めて、自分に述べられていることのように真摯に受け止めたいと思います。叱責もだんだん慣れてくると軽くとらえられ、ついには聞かなくなってしまうことが一番怖いです。悔い改めのために、いつも天の父、イエス様、聖霊様の訴えの背景にあるその切実な御心を思うことが重要ではないかと思います。それは、私たちを救いに導きたい、という愛の思いそのものなのです。