今日から11章になります。
イエス、すなわちメシアの到来を預言し人々に「その道を備えよ」と先立って延べ伝えていたバプテスマのヨハネは、その教えに恨みをもったヘロデ王の妻と娘の陰謀により、牢獄に入れられていました。
イエス様の数々の癒しと奇跡を見、貧しい人々への福音を聞くことなく牢屋へ入れられていたヨハネは「イエス様は本当に来るべきメシアなのか?」
このような疑問を持っていました。預言した本人が、「天の国とはどういうものか?」そのものを体験として味わうことが出来ていなかったからです。
また、本当にイエス様がメシアなら、自分を牢獄から救出してくれるはずだ、とも思っていたのかもしれません。
イエス様は自分の弟子たちや群衆が集まった時、このバプテスマのヨハネについて語られました。
彼は、今まで以上の預言者であると。預言者以上の者である、と称えました。
それは、彼がイエスの初臨(人間でありながら神であるメシアとして、この世に来られること)を直接預言した、道先案内人だからです。
旧約の時代から常に神様は数々のエリヤなどの預言者を送り、これから起こること、悔い改めについて、神の裁きと愛、悲しみと嘆き、救い、回復についてのメッセージをイスラエル、すなわち神の言葉を知っている民に、何度も何度も送ってきました。
にもかかわらず、イエス様は神の民の反応を次のように嘆かれています。
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」
あれだけ預言のメッセージを送られ、ついに預言が成就したイエス様本人、そしてその業のしるしを実際に見ても、特にイスラエルの最高峰の教師たち、パリサイ派の宗教家たちはイエス様を来るべき「罪の犠牲の子羊」であるメシアとして認識することが出来ませんでした。それほど彼らはサタンが与える世で成功する教えに洗脳され、それに陥っていたからです。
イエス様はヨハネのことを、現れるはずのエリヤである、と言われました。各時代の希望(第10章 荒野の声)にはこう書いてあります。
「彼の態度と服装は預言者エリヤに似ていた。彼はエリヤの霊と力とをもって、国をあげての堕落を攻撃し、みなぎっている罪を責めた」
ですが、イエス様は「天の国で最も小さい者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」とも言われたのです。
これは本当に、驚くべきことです。
この小さい者とは、私たちのことです。私のことです。新約聖書を与えられ、イエスの十字架の贖いの真実を知っている者、それを受け入れ信仰を持っている者たちのことです。
十字架上で行われた神様の贖い以前に生きたヨハネや旧約時代の預言者、信仰の達人たちでさえも、私たちよりその偉大さにおいて劣る、とイエス様は言うのです。すなわち偉大さとは、「この地上で、神の真理の光をどれだけ多く受けたか」ということかと思います。
もっと言うと、現代の私たちよりも、これから最終時代を生きる神の民は、さらに神の光を受け、最も小さい者、偉大な者になるのだと思います。それが究極的には14万4千人と黙示録に書かれている民のことかと思います。
なぜなら、最終時代の神の民は、人類が始まった時からの罪の影響を受け続け、最も人間的には堕落している世代、最も小さい者に違いないからです。
しかし、そのような最も小さき、弱きものに、神は慰めとしての後の雨(=Latter Rain,聖霊)を豊かに降らせ、艱難に耐える力を与え、裁きの中で永遠の福音である救いの完成のピースを示され、かつ天の国の喜びを確実に味あわせて下さる、と聖書に書かれているのです。
今日のデボーションはとても長くなってしまいましたが、私の今の信仰の中核になっている箇所であったことを、改めて主に感謝します。
これからも生きている間、死ぬまで・・、日々神様の光を絶えず与えてくださるよう祈りたいです。
また、私よりもさらに最も小さい者にあたる、私の娘たちの世代の信仰についても祈っていきたい、と改めて強く思いました。