Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~中風の人をいやす~  [マタイ 9:1-8]

今日もイエス様のいやしのお話しが続きます。今日は様々な側面からの学びが得られる箇所です。

中風は「ちゅうぶ」と読み、「脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態」の意味だそうです。ある日、そんな中風を患った人が、床に寝たままイエス様のところに友人によって担いで連れてこられました。このマタイの福音書には書いていないのですが、マルコ、ルカの福音書には、その時、イエス様がおられた建物には話を聞こうと人がひしめき合っていてとても入れない状態だったので、なんとその建物の屋根をはがしてイエス様の前に床を吊り下げ、その前に置いた、と書かれています!そこまでしてイエス様に中風を癒してほしかった思い、そこまでして床を担いできた友人の思いやり、憐れみの心にも驚きます。

中風の人や友人の発言した言葉は書かれていませんが、イエス様は彼らのその信仰を見た、とあります。そして「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と発せられました。

さてここで、「あなたの病気は癒される」ではなく「あなたの罪は赦される」とおっしゃったイエス様。ちょっと疑問に思いましたので、ここについて以前牧師さんが次のように教えてくださいました。

「おそらく、この中風の人はもう自分の最期が近いことを強く感じている。しかし、まだ自分の中で今なおくすぶり続ける拭いきれない後悔の念や罪悪感に苦しんでいた。そんな苦しみをイエス様が見抜かれ、“罪は赦される”との言葉をかけられた。」

また牧師さんは、たとえ認知症になってもこのような罪悪感を覚えておられる人々を見てきた経験がある、とおっしゃいました。なんと苦しいお話でしょう。人は最期の時さえも平安の内に迎えられないのでしょうか。人とは、そんなに悲しいものなのでしょうか。しかしそれが真実だとしたら、神に「あなたの罪が全て赦される」と死の直前に宣言されることは、どれほどの解放、慰め、喜びとなるでしょう。

さて、そんなイエス様の言葉を聞いていたある律法学者が「罪は神のみによって赦されるはず。どうして人間が“罪が赦される”、と宣言できようか。神への冒涜ではないか」と考えていました。その心をイエス様は見抜いた、とまた書かれています。神には全ての人の想いがわかるのです。そこで、イエス様は「人の子(=イエス様)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と群衆の前で宣言されました。そしてその中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と命令された途端、その中風の人は起き上がり、家に帰ったのです。ここでもイエス様は目に見える癒しの奇跡によって、神がイエスに与えた権威を人々に示されました。この中風の人は、麻痺が癒され立ち上がっただけでなく、人生で重荷として背負っていた罪をも赦されたことを確信できたはずです。これを見た群衆は恐れの念に駆られ、神を賛美せずにはいられなくなりました。その理由は神がこれほどの権威を人間に与えたから、と書かれてあります。

いまだかつてイスラエルにこれほどの権威を与えられた神の民や預言者はいなかったのでしょう。イエス様にこれほどの権威が与えられたのはもちろんイエスが神であるゆえに、です。よくイエスは人間か?神様か?それとも50%は人間、残り50%は神様か?などという話が浮上しますが、この今日の聖書箇所を読むと100%人間だけれども、かつ100%神様でもあると思える箇所と思いました。それでも当時、この驚くべき出来事のただ中にあって、イエス様を神の子と認めない、信じない人もいたのです。これについては、旧約聖書のメシア預言を知識として持ち合わせている、いなかったなどの話に発展しそうですが、今日はこのあたりにしたいと思います。

現代の私達の時代も同じです。しっかり聖書を聖書で解釈し、正しい知恵と知識でイエス様のことを明らかにしてくださるように、祈り求めたいです。