Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~手の萎えた人をいやす~ [マタイ 12:9-14]

今日の箇所は前回からの続きになります。

安息日に弟子たちが麦の穂を摘んだことでファリサイ人がイエス様を批判した事件の後、イエス様は会堂に入られました。ここでも人々がイエス様を批判する気に満ち溢れていました。ちょうど手の萎えた人がいたのでイエス様がそれを癒されると思い、「安息日に病気を治すことは律法で許されていますか?」という疑問をここぞとばかりに投げかけたのです。

エス様の答えはもちろん、麦の穂の事件の時と同じものでした。より分かりやすいたとえ話をもってお答えになりました。

もし羊を1匹持っていてそれが穴に落ちたら安息日だからといって、手で引き上げてやらない者がいるか?人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている

その言葉の後、イエス様は萎えた手をお癒しになりました。

それを見たファリサイ派安息日や神の愛を理解するどころか、なんと「エスをどうやって殺そうか」と相談し始めたのです。

同じ神からの命を受けて、土の器で作られた人間でも、このような神の愛や行いを目の当たりにしたとき、その反応が全くの正反対に分かれてしまうことの不思議さと恐ろしさを感じます。悪の勢力に支配されてしまった心にとっては、神の愛を見れば見るほど心が頑なになり、ますます悪の側の思いを抱いてしまうという現象。どうしてこのような状態にまで人間はなってしまうのでしょうか。

それは、それまでにその人に行われた数々の聖霊様のささやきや訴えに耳を貸さず、心を従わせなかったことの積み重ねだといわれています。すっかり頑なになってしまった心についてはたとえ神であるイエス様でも変えることができない、ということが本日の箇所から読み取れます。

だからこそ今日、イエス様が天から送ってくださっている聖霊様の声に注意深く耳を傾けるべきです。一度無視してしまっては次に無視することはより簡単なのです。耳を傾けるには今の自分よりより謙虚な心でその声を受け止めなければなりません。自分を否定しなければならないのかもしれません。でも従うほうを選択するのです。

信仰にはこの経験が必要であることを改めて思いめぐらすことができた本日のデボーションに感謝します。