Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~四千人に食べ物を与える~ [マタイ 15:32-39]

以前、イエス様が群衆五千人に給食をされた奇跡の場面がありましたが、今回も病気を癒してもらうために集まっていた4千人に、ちょうど手元にあった7つのパンとわずかな魚を用いて、五千人以上の群衆が満ち足りるまでの給食の奇跡を、天の父への感謝の祈りによって行われました。イエス様はこのように霊的な満たしだけではなく、肉体的な面でも病気を癒し私達の命が常に健やかに保たれることも考え、十分に備えてくださる憐み深い方だと改めて思います。

先日のリトリートで頂いたポットラックの給食

私は何も持っていない、価値がなく、アイデアもなく、全くの無力だと思いつつも主の奇跡を信じ祈っているまさにその時、全く予想もしていなかった必要や助けが与えられた、という証をよく耳にします。今回開催されたリトリートもそのような歩みと小さい者たちの祈りから始まったミニストリーでした。しかし、主はたとえそのような御心にかなった祈りができていなくても、すでに私たちの必要をご存知で、あふれるばかりの恵みを日々与えてくださる方であります。

そのような方からの恵みをいったいどれだけ「当たり前」として今まで私自身受け取ってきたのでしょう。

これからは、主からの恵みと憐みに気づくことができ、それに対して1つ1つ感謝と賛美をささげられる者になっていきたいです。そのためには、聖書にも多く記されているイエス様そのものであられる憐みと恵みを、日々思いめぐらすことだと思いました。詩編23編にも、「命のある限り、恵と慈しみはいつもわたしを追う。」と驚くべきことが記されています。私を追ってくる、迫ってくるほどの恵みなのです。今日主とともに生かされている恵みに感謝いたします。

~大勢の病人を癒す~ [マタイ 15:29-31]

カナンからまたガリラヤに戻られたイエス様ですが、「山に登って座っておられた」とあります。山に登って、いつものように一人きりなれる場所で天の父との祈りの交信をされていたのかもしれない、と思います。

そして、十分にご自身が父とのつながりで満たされた時、群衆がまた大勢の病人をイエスのもとに連れてきた、ということです。

エス様がガリラヤに戻ってこられた、というニュースはもうすでに地元では広く伝わっていたのです。

これらの集まった病人たちは足が悪い、目が見えない、寝たきりなど不自由のため自分でイエスの元に来られない人たちばかりでした。その家族や友人が連れてきたのです。

本人も家族も噂でも聞いていたし、イエスが病人を癒す奇跡を実際の目で見ていたのでその奇跡の力を疑う余地がありませんでした。そして実際、次々とすべての病人がイエスによって癒されたのです。そして彼らは「イスラエルの神を賛美した」のです。私のメシアである、と確信したのです。その瞬間、人は本来賛美せずにはいられないような設計になっていると最近よく思います。

詩編にも預言書にも「貧しい人、弱い人は主によって癒される」と何度も書いてある通りで、それが彼らの目の前で起こりました。この方が神でなかったら、いったい誰が神なのでしょう?幼子でもはっきりわかります。でもイスラエルの教師たちは最後まで、そして今でもイエスを神であると、メシアであると認めていません。

現代においても天でのイエス様の働きにより、主により頼む人々が奇跡的に癒され、ガンが消えたなどの回復する証を幾度となく兄弟姉妹から聞いています。また壊れた心の回復の奇跡も聞きます。そしてなんといっても極悪人や罪びとが回心し、心を変えられ主に従って歩み始めるという奇跡を聞くのです。この奇跡こそ、信じなければなりません。そして主を賛美する道をこれからも歩み、この奇跡の御国の福音を延べ伝えていくのです。

~カナンの女の信仰②~ [マタイ 15:21-28]

今日は昨日の続きから読みます。

エス様一向がカナンの地に着いた時、その土地で生まれた女がイエス様に近寄り、「主よ、ダビデの子よ、悪霊にとりつかれた娘の病気を癒してください」と叫びながら懇願しました。しかし、エス様は今までとは違って、何もお答えになりません。弟子たちは、イエス様はその女が異邦人だからきっと癒さないだろうと悟ったのか、「この女を追い払ってください」とまで言いました。そして、さらにイエス様は追い打ちをかけるように「私はイスラエルの失われた羊のところにしか使わされていない」とはっきりおっしゃいました。それでも女はあきらめず、「主よ、助けてください」とすがりました。するとイエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とまで言われたのです。

私が小犬…?ここまで屈辱的とまで言えるほど冷たくあしらわれたらどうでしょう?私ならイエス様に文句を言いたい気持ちでいっぱいになりそうです。「あなたは人種を差別される神ですか?異邦人をも救うためここまで来られた万人神ではないのですか?」と。

しかし、この女の信仰は本物でした。イエス様が憐れみの神と信じて疑わなかったのです。非常に知恵のある言葉で返しました。しかも、Yes, But手法も見事に用いています。

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです

これを聞いたイエス様は本当に嬉しい表情を浮かべたに違いありません。わざわざカナンの地に赴いてよかった、と。そして「あなたの信仰は立派だ」とまでイエス様に言わせたのです。そしてまさしくその時、その女の娘の病気が癒されたのです。

今日の話の一番の私にとっての教訓は何かを考えてみました。この女のようにイエスを主と信じ、必死に癒しを求め、すがる思い、そうかもしれません。神の恵みは神の民を超え、異邦人である私たちにも広がるという真理への悟りとその信仰。それもあります。この女性にはその全てが備わっていたことと思います。

しかし一番の成功の秘訣は、異邦人であっても彼女は「日々聖霊様を求め、祈り、聖書のみ言葉を学んでいた」ということかと思いました。普段から聖霊様が彼女の中に働いていないと、このような知恵と信仰に満ちたやりとりは到底イエス様と行えないのではないか、と思います。また、信仰の目がなければあれほどイエス様に拒絶されたら、あきらめてしまうと思います。でも、彼女は聖霊様に十分満たされていたからこそ、同じ霊をもつイエス様に言葉ではとたえ何を言われても、霊によって目の前のイエスのご品性と愛を強く感じとっていたに違いない、と思うのです。

エス様はそのような魂のところにすぐ来てくださるお方です。この日本にも収穫の準備を待っている、イエス様を待っている魂があるのを主はご存知です。私たちには見えない世界ですが、聖隷様の力によってこの救霊の運動に私たちも加えてくださいますよう、今日もお祈りしていきます。

~カナンの女の信仰①~ [マタイ 15:21-28]

今日は地元の町からイエス様一行がティルス・シドン(カナン地方)の町まで赴かれたという話です。

カナンの地(イメージ)

ティルス・シドンは今のレバノンにあり、ガリラヤ地方からは約60kmも離れている町です。今日からの箇所ではカナンの女が出てきますが、聖書ではカナン人のことは下記のように定義され、イスラエル人とは昔から聖別されていました。

 

ウィキペディアより~

カナン人とは、広義ではノアの孫カナンから生じた民を指している。「創世記」10章15-18節では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。イスラエル人とは区別されている。”

“神はアブラハムに対し、彼の子孫にカナンの地を所有させると約束しており、これの障害となる原住民のカナン人は排除(聖絶)すべき存在として記述されている。”

 

ではどうしてイエス様はこのカナンの地にわざわざ弟子たちと赴かれたのでしょうか?

弟子たちもその理由がさっぱり分からなかったかもしれません。イエス様はユダヤ人を救うために来られたのにどうしてその救いから外れているはずの異邦人にあえて遠方から向かわれるのか?

それは、イエス様が育った地元であるイスラエルの家(神の民)よりも、異邦人の土地で収穫を待っている魂の存在があることをイエス様が察知されていたからだと私は思います。またそのような本物の信仰を持っている魂がイスラエルの家の外にあることを、弟子たちに実物教訓として示すためだったのかと思っています。

これほどまでに熱意をもって、具体的に体を動かし、魂の救いのために弟子たちに行動として教えてくださる、また既成概念を真っ向から打ち砕くイエス様の真剣さと愛に感動します。この精神・姿勢こそが自己犠牲なのだとあらためて学びます。

この続きはまた次回にしたいと思います。

神様、今日のイエス様のように実際に体を動かし、行動を伴う信仰を与えてください。頭ではわかっていなくても、行動したことではじめて主が教えてくださいます。行動についてその理由がわからないときでも、主に告げられた通りに信じて動く信仰を与えてください。

~昔の人の言い伝え~ [マタイ 15:1-20]

今日から15章に入ります。今日はイエス様のするどいお言葉が沢山詰まった箇所です。

ファリサイ派の学者たちがわざわざ都エルサレムからガリラヤまでやってきて、イエスの弟子たちに難癖をつけるところから始まります。「あなたの弟子たちは、なぜ昔からの掟に従って食事をする前に手を洗わないのですか?」と。

エス様はつかさず、ストレートにこう言われました。

「神の律法を守っていないのは、あなたたちのほうだ。神の律法を自分の都合の良いように解釈しそれを無にしている。イザヤの預言は見事に当っている、あなたたちこそ、偽善者、神をむなしくあがめている者たちだ。」

また彼らのことをこうも言われました。

「彼らは盲人の案内をする盲人だ。2人とも穴に落ちてしまう」

エス様のたとえはなんと明確で興味深く、わかりやすいたとえでしょうか。しかし彼らは悔い改めるどころかますます心を頑なにします。「自分は間違いない、正しい」と思っている心がそうさせるのだと思います。

また、今日の箇所ではご自身の弟子たちのことについても、指摘がありました。

あなたがたも、まだ悟らないのか・・・?」です。

エス様の「口から入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのである」のたとえの意味がわからなかった弟子たちは、イエス様にこのたとえを説明してください、とお願いしたからです。イエス様の、弟子たちの悟り度に対する焦りの気持ちをここで少し垣間見ることができます。でもお優しい教師でもあるイエス様は彼らにわかりやすくご説明されます。

このたとえは「食事前に手を洗う、洗わない」の論争に対し、イエス様がその根本的な解答としてご提供くださったものです。

本来手を洗う目的は、感染症などからあくまで体を守るためです。また食べた後出てくるものは人を汚しません。しかしイエス様は病原菌より人を汚すものがあると言われます。体から出てくるものとして、腹からのものと口からのものとの2つを対比させることで、これをまた見事に分かりやすくご説明されました。そうです、口から出てくるもの(言葉)は心から造られているので、その根本が悪ければ自分をも、他人をも、時は死においやるほど汚し、傷つけることになります。ですから「神に背いた人の心から出る言葉が一番人間を汚す」が最終結論となります。

ヤコブの手紙にあるように、なんと自分の言葉(舌)を制するのが難しいことか、日々思います。自分でも驚くほど無意識に不満、不平が独り言やつぶやきとしてこぼれてしまうことがあります。

でもそんな時こそ、この聖書に書かれていること、イエス様のおっしゃっていることは真実であることを悟る瞬間でもあります。

これからも何よりも自分の心を聖霊様で満たし、守っていただけるようにと改めて強く思わされた箇所でした。イエス様のたとえに感謝いたします。

~ゲネサレトで病人をいやす~ [マタイ 14:34-36]

今日は2章だけの短い箇所です。じっくり読んでいきます。

湖の上を歩く大事件の後、一行はゲネサレト(ガリラヤ湖の西側にある平原地帯の名)という土地につきました。しかし、休む間もなくその土地の人々は「イエス様が来た!」ということで多く集まってきました。もうこの時点ではイエス様はこの地方ではかなりの有名人でした。イエス様を神様と本気で信じて集まってきた人も多かったことでしょう。

とにかく「癒し主」としての噂が広まっていたので、その土地の病人という病人が集まってきました。あまりにも数が多かったし、治りたい気持ちいっぱいで切迫していた住民たちは、「エス様の服のすそにでも触れさせてほしい」という思いを抱きました。そしたら何と、「触れたものは”皆”いやされた」と書かれてあるのでした。

この不思議が起こった背景として、彼らに対するイエスの愛と憐みと力があったことは言うまでもありません。しかしそれだけでは奇跡が行われないと思うのです。今回の病人たちのように、「神様なら何でもお出来になる、神の衣のすそに触れるだけでもその恵みと力と回復を受けられる」というまっすぐで必死な信仰が共に働いたため、この奇跡が実行されたのだと思います。

信仰とは信じることと、全面的に神にすがることです。全面的に、必死に、ということが重要です。今日の箇所が明確に教えてくれています。「ここは私がやれます、この一部だけ神様お願いします」という信仰だけでは働かないように思います。私たちは何かにすがったり頼ったりする姿をあまり好ましく思っていません。弱肉強食の世界で、それは弱い、敗者のようなイメージがあるからです。

でもイエス様はこの世と反対の態度、存在になりなさい、自分を弱いものと認め、必死で私にすがりなさい、といつも言われます。

このことを自尊心、自分の恥をかなぐり捨てて行えるようになるのが本当の信仰者であると思います。この病人たちのようにそれが本当に出来た時、主は最高の平安と平和を与えてくださるのです。今日も私もその勇気を一歩踏み出していきたいです。

~湖の上を歩く~ [マタイ 14:22-33]

五千人の給食のすぐあと、今日の箇所であるイエス様の有名な「湖の上を歩く」不思議と奇跡の話がまたまた展開されていきます。

娘のお友達による礼拝堂のスケッチ

この日、イエス様は朝から夕方まで病人の癒しの奉仕をされ、5千人の給食の奇跡の大事件をもたらされた後、ひとり山に登って祈られた、とあります。

エス様は朝夕で父なる神との交信の時間は欠くことがありませんでした。奇跡を起こしてくださった天の父に対する感謝の想い、これから始まる十字架に向かっての大闘争に向けての想い、弟子たちの訓練について・・・私には想像もできませんが父に祈ることが沢山おありになり、肉体は疲れていても常に祈る事を選択されました。

弟子たちを先に解散させるべく、イエス様は向こう岸に移動する舟に彼らを乗せました。

しかしその舟は逆風のためなかなか岸に到着しませんでした。もう明け方になっていました。

その時、イエス様が湖面を歩いて彼らの舟に近づいているのを見たのです!彼らは思わず「幽霊だ!」と叫びました。彼らの心境は十分に想像できます。そんな中、イエス様は恐怖で怯える彼らに対して「安心しなさい、私だ。恐れることはない」と優しくおっしゃったのです。

ペトロは「主よ、あなたでしたら私に湖面を歩かせてそちらに行かせてください」と本当にそれがイエス様かどうかを確かめようとしました。もしそうでなかったら自分も溺死で命を失うことになるので、ほぼ100%イエス様だと信じていたと思います。しかし彼の中にわずかに疑いの不信仰の念が混じっていたため、このようにイエス様を試してみようと思ったのだと思います。

このようなペテロの信仰をイエス様は見抜いておられましたが、それをも全て受け入れイエス様は「来なさい」と言われました。

そして、ペテロはいよいよ湖面を歩きだしました!途中突風が彼を襲って足が沈みかけたとき、さすがに怖くなり思わず「主よ、助けてください!!」と叫びました。

そこでイエス様はすぐに手を伸ばして彼を捕まえ、こう言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

そしてこの話の結論としては、この奇跡の事件を通しさらに弟子たちは「本当にあなたは神の子です」とイエス様を拝む結果となったのでした。

私もペトロのように信じては疑い、また窮地に追い込まれては主を切に求める、ということの繰り返しの信仰生活です。ただ、ペテロのように100%確信は持てないけれども主を信じて行う、進むということが、まだまだ十分に出来ていません。

ただ、疑いながらも信仰者が進む決心をしたとき、助けが必要な時にはペテロのように主が必ず速やかに助け手を差し伸べてくださることが今日の箇所から確証できました。このような神の愛は本当に深淵であると感じます。今日のような箇所のおかげで、文字通りどんな状況でも、たとえ自分に疑う心があっても、主を信じ切るほうを選ぶことができるのではないかと思いました。感謝いたします。