今日は昨日の続きから読みます。
イエス様一向がカナンの地に着いた時、その土地で生まれた女がイエス様に近寄り、「主よ、ダビデの子よ、悪霊にとりつかれた娘の病気を癒してください」と叫びながら懇願しました。しかし、イエス様は今までとは違って、何もお答えになりません。弟子たちは、イエス様はその女が異邦人だからきっと癒さないだろうと悟ったのか、「この女を追い払ってください」とまで言いました。そして、さらにイエス様は追い打ちをかけるように「私はイスラエルの失われた羊のところにしか使わされていない」とはっきりおっしゃいました。それでも女はあきらめず、「主よ、助けてください」とすがりました。するとイエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とまで言われたのです。
私が小犬…?ここまで屈辱的とまで言えるほど冷たくあしらわれたらどうでしょう?私ならイエス様に文句を言いたい気持ちでいっぱいになりそうです。「あなたは人種を差別される神ですか?異邦人をも救うためここまで来られた万人神ではないのですか?」と。
しかし、この女の信仰は本物でした。イエス様が憐れみの神と信じて疑わなかったのです。非常に知恵のある言葉で返しました。しかも、Yes, But手法も見事に用いています。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」
これを聞いたイエス様は本当に嬉しい表情を浮かべたに違いありません。わざわざカナンの地に赴いてよかった、と。そして「あなたの信仰は立派だ」とまでイエス様に言わせたのです。そしてまさしくその時、その女の娘の病気が癒されたのです。
今日の話の一番の私にとっての教訓は何かを考えてみました。この女のようにイエスを主と信じ、必死に癒しを求め、すがる思い、そうかもしれません。神の恵みは神の民を超え、異邦人である私たちにも広がるという真理への悟りとその信仰。それもあります。この女性にはその全てが備わっていたことと思います。
しかし一番の成功の秘訣は、異邦人であっても彼女は「日々聖霊様を求め、祈り、聖書のみ言葉を学んでいた」ということかと思いました。普段から聖霊様が彼女の中に働いていないと、このような知恵と信仰に満ちたやりとりは到底イエス様と行えないのではないか、と思います。また、信仰の目がなければあれほどイエス様に拒絶されたら、あきらめてしまうと思います。でも、彼女は聖霊様に十分満たされていたからこそ、同じ霊をもつイエス様に言葉ではとたえ何を言われても、霊によって目の前のイエスのご品性と愛を強く感じとっていたに違いない、と思うのです。
イエス様はそのような魂のところにすぐ来てくださるお方です。この日本にも収穫の準備を待っている、イエス様を待っている魂があるのを主はご存知です。私たちには見えない世界ですが、聖隷様の力によってこの救霊の運動に私たちも加えてくださいますよう、今日もお祈りしていきます。