Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~五千人に食べ物を与える~ [マタイ 14:13-21]

エス様はご自身のいとこでもある「洗礼者ヨハネが暗殺された」おぞましい事件のことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところに退かれた、とあります。

おひとりの静かな時間の中で、悲しみの哀歌を唱え天の父との交わりの時間を持たれたかったのかもしれません。

しかし、それを聞きつけた方々の町々からの群衆は、イエス様の舟のあとを追いかけてきたのです。

このように心が打ちひしがれているときも、イエス様は休憩する場も時間も全くなかったのでした。

でもそのような状態でも、イエス様は人々に憐れみの心を持ち、舟から群衆のところに出て行って、病人たちの病気を癒し、人々の必要のために仕えられたのでした。

「夕暮れになった」、「まだ群衆たちが食べ物を買いに行ける時間」と書かれていますが、このことからも朝から日が暮れるまで食事の時間もなくイエス様は癒しのご奉仕を一心にされていたのだと思います。

自分自身が心乱され、悲しみ、疲れ果て、空腹のとき、このイエス様のように自分のことよりも他者の必要に関心を持ち、癒しや慰めの行為が果たしてできるのか・・・?

そのように自分が弱り果てている時は、まず自分がしっかりとコンディションを整え、回復の力を得てから他人の事に臨む、というのが一般的な考え方であり、私もそのように無意識に考え、生活しています。

しかし、イエス様はそうではありません。真の自己犠牲の精神を優先し、他人に一心にお仕えになることを選ばれた時、今回のお話のようにイエス様の賛美と祈りは確実に天の父に聞かれたのでした。

ランチとして持ってきていた、少年のパンと魚という小さな1人分の食事を、天の父は5千人、それ以上の必要を満たす食事へと変えてくださるという奇跡を起こされました。霊的・肉体的欠乏にあった群衆、しかし空腹を覚えてでもイエス様の話を日が暮れるまで聞きたいと飢え乾いていた群衆をイエス様が深く憐れみ、愛したその心で、天の父も同じくそこに1日中いた群衆を憐れんでくださったのです。

エス様のように生きる。本当に難しいことです。しかし、他者に対して自己犠牲の精神を信仰者が見せた時、行ったその時、その人の祈りは聞かれるだけではなく、天の父が奇跡を起こしてくださることは間違いないと確信させられる箇所でした。今日もすばらしいイエス様の信仰を教えてくださったことに感謝します。

~洗礼者ヨハネ、殺される~ [マタイ 14:1-12]

今日から14章になりますが、タイトルの通り、今日は恐ろしい事件の箇所になります。

Birth flower in February -Violet

聖書をより理解するため、エレン・G・ホワイトの偉大なる証の文、「各時代の希望 第22章 ヨハネの投獄と死」をあわせて読むことにしました。

この22章には洗礼者ヨハネヘロデ王の心情や霊的葛藤が詳細かつリアリティーをもって描写されており、このような具体的かつ見事な描写に、毎回驚きと感銘が生じるのを隠せません。

今回は特にヘロデの心情の変化を、22章からいくつか引用し、瞑想したいと思います。

 

“ヘロデ自身ヨハネの説教をきいていた。放蕩な王は悔い改めを促す叫びにふるえあがった。”

“ヘロデは、ヨハネを神の預言者と信じていたので、彼を自由の身にする意志が十分あった。だが彼は、ヘロデヤ(妻)を恐れて、その意図を果たすことを遅らせた。”

“若い(ヘロデの)娘はひき返して、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」という恐ろしい願いをだした(マルコ6:25)。 ヘロデはびっくりし、ろうばいした。飲めや歌えの騒ぎはやみ、歓楽の場は不吉な沈黙に支配された。”

“ヘロデは、自分の誓いから解放されるのを待ったがむだだった。そこで彼はしぶしぶ預言者の処刑を命じた。”

ヨハネの自己犠牲的な生活と、その厳粛で熱心な訴えと、健全な判断にもとづく勧告とを思い浮べ、そして彼の死のいきさつを思い出すと、ヘロデは心が安まらなかった。”

“ヘロデは、神が罪の行為の結果として宣言しておられる通りのものを自ら刈りとっていた。”

 

本当に恐ろしいことです。人は神からのメッセージに喜んで耳を傾ける性質がある一方、世からくる欲望や誘惑に支配され、ついには神の側ほうを選ばない結果、罪の結果を自ら摘み取ることになるのです。特に今回は酒とごちそうと宴会の席というシーンでヘロデが朦朧としていたその時、“自分の領地の高官たちの前でいばれるような見せびらかしを何かやってみたいと思った”瞬間、この不幸な事件が起こったのです。

 

洗礼者ヨハネはこのようにヘロデ王から民衆までに、神のメッセンジャーとして大きな影響を与え偉大なる功績を残しました。証の文にもあるように彼自身投獄中、イエス様が真の救い主であることを一瞬疑いましたが、最後にはそのことも正しく聖霊様が彼に悟らせました。

 

この2名の出来事を注目するだけでも、人はいかに霊的な戦いに常に晒されているかが分かります。すべては霊的なことで、私たちはただただ聖霊様により導かれなければヨハネでさえも決して正しい方向には進めない、ということも分かります。そのことを改めて証の文を読み、肝に銘じることが出来ました。

~ナザレで受け入れられない~ [マタイ 13:51-52]

前回までイエス様の本当に沢山のたとえ話が続きました。今日の箇所はそれをようやく終えられ、イエス様はナザレの故郷にお戻りになりました。

大工仕事を手伝うイエス

故郷の会堂で教えておられると、地元のナザレの人々はイエス様のことを「ただの大工の息子なのに、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」といった疑問を投げかけます。

確かに子供のころからイエス様の成長を見ている家族や故郷の人々にとっては、イエス様のことを自分たちと同じ一角の住民、兄弟、隣人、そして何よりも人間であると思ってしまうのだと思います。イエス様は30歳でこのような宣教活動を開始されたため、突然の変わりように驚きを隠せなかったのです。そして過去の彼らの記憶や経験により、イエス様を救い主として信じ、受け入れることがどうしてもできませんでした。

私たち信仰者もイエスの信仰に入った場合、これと同じような現象が起こります。家族や親戚たちはその中の1人が突然「イエス様を信じる」と告白した時、まるで自分たちとは違う、異質なものに所属したような感覚に陥り、その事実を受け入れることが難しくなります。

もう少し視野を拡大しても同じことが言えます。いにしえから聖書に精通している神の民であるイスラエルの教師・民も、多くイエス様につまずきました。聖書ではイエス様はそのつまずきを何度も預言しておられ、今日の聖書箇所にも次のように出てきます。

預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。

この聖句は、逆を言えば、

「故郷、家族以外で預言者(イエス様)は敬われる。」

ということも考えられます。すなわち、異邦人(世界の人々)が神であられるイエス様を敬うようになる、ということです。

今、本当にそうなっています。世界中の人が国境や文化、民族を越えてイエス様を信じ、救い主として受け入れています。

信仰に入った人にとっては一番救われてほしいのは一番近しい、愛する家族のはずです。私もそうです。でも今日の箇所を読んだようにその難しさがあり、それはイエス様も認めておられる点です。

しかし、それでもその大きな、びくともしない山を乗り越え、それを可能にしてくださる全能の神様にそのことを委ねます。彼らの内に奇跡を行ってくださることを願い求めていきたいと思います。

~天の国のことを学んだ学者~ [マタイ 13:51-52]

今日の箇所は、イエス様が弟子たちに総括の確認をしてくださいます。

東京都庁からの夜景

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか?」

弟子たちは「分かりました」と言いました。その前に聖書には書かれていない質問なども弟子たちからはいくつかあったのかもしれませんが、イエス様はそれに対しても彼らに全てわかるように説明してくださったはずです。そしてたとえ話のことについては、彼らにとってはすべてクリアーになりました。弟子たちは個々にもやもやしていた疑問もあったところに、さらに新たな真理を手にすることが出来たわけです。彼らの目はこの時、喜びと輝きに満ちていたに違いありません。

私たちもそうです。牧師先生など他社からの聖書講解から自分の持っていなかった聖書解釈が新たに与えられたとき、また自分でじっくり聖書を読み直して新たな気づきがあった時ほど心が燃える経験は他にありません。宝を見つけることができたからです。

そこで、イエス様は弟子たちも含めてイエスの言葉を悟った人を学者とおっしゃり、次の聖句で締めくくられました。

「そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

このままではちょっと抽象的にしか理解できなかったので、リビングバイブルを参照しました。ありがたいことに、リビングバイブルでは学者や新しいものと古いもののことを下記の様にわかりやすくBreak Downして説明してくれていました。

「そこでイエスは、さらにこう言われました。「ユダヤ人のおきてに通じ、しかも、わたしの弟子でもある人たちは、古くからある聖書の宝と、私が与える新しい宝と、二つの宝を持つことになるのです。(リビングバイブル)」

これで大変クリアーになりました。

天の国を知っている人、イエスの弟子である人たちは皆、二つの宝である旧約聖書新約聖書のどちらにも精通しているはずだ、ということになります。

そしてその人は学者であり、同時に一家の主人、管理人でもあるということです。

一家の管理人はすべて自分の所有物が何で、どこに管理されているかを全て把握しているものです。そして適切な目的でそれを使用します。

私たちも同時に神様から頂いたお金・時間などの物質的・物理的なものの管理だけでなく、自身の神から頂いた言葉に関する知識の管理もしっかり行いなさい、ということです。神のおっしゃったことを悟らなければそれを財産として自分の蔵には決して管理できません。今日はこの点をしっかりイエス様に教えていただきました。聖書通読の大切をまた改めて実感しました。

~「天の国」のたとえ~ [マタイ 13:44-50]

前回は「毒麦」のたとえの種明かしをされた箇所でしたが、今日は「天の国」についてまた別のたとえを用い、イエス様が弟子たちに教えておられます。

「人が本当に大切なものを見つけた時は、人は自分の持っているもののすべてを売り払ってでもそれを手に入れたいと思うものだ」という内容です。大切なものの例として「畑の宝」「真珠」が挙げられています。このような宝石類はその名のとおり高価で価値のあるものです。その宝とは、「イエス様」というお方そのものである、と間違いなく思います。

生まれて初めてイエス様に出会った時の衝撃は、本当に「探し求めていたものに出会った!」という経験であり、以下のパウロのみ言葉が言い表している通り、その心情を見事に言い当てています。

主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。(ピリピ人への手紙 3:8 リビングバイブル)」

また後半には、網にかかった大量の魚のたとえがあり、前回の毒麦のように「悪い魚はより分けられて投げ捨てられる」という世の終わりに起こるお話も再度されました。イエスの弟子たちでさえ、それほどこの事を警戒しなければならない、ということかと思います。

本日の宝のたとえ、そしてパウロのみ言葉のように、心からイエス様を切望していなければ、イエス様もこの世の魅力的なものも両方求める傾向、すなわち「二心」に陥る傾向があるのかもしれないです。「自分の全てを犠牲にして(自分の十字架を背負って)イエス様に捧げる信仰」があってはじめてその宝を手に入れることが出来るのです。はっきりしています。宝の一部だけを買うことは出来ないのです。イエス様がこの宝のたとえと悪い魚のたとえを一緒に話されている意味も、もっと深く考えなければなりません。少しでも自分の心に二心の原因となる「偶像礼拝」があっては神様の目から見た良い麦、魚にはなれないのだと。ただただ主の主権の中で恵と憐みの中で生きることに喜びを感じ、100%満足できるか?それにかかっている気がします。そのように願い求められるよう、私には日々の祈りが必要です。

~「毒麦」のたとえの説明~ [マタイ 13:36-42]

前回イエス様はこの「毒麦」のたとえを群衆にお話しされましたが、そのたとえは一体どういう意味だったのか?弟子たちは群衆を離れ、個別にイエス様と家の中に入った後に訊ねました。このようにイエス様は弟子たちにはそのたとえの意味を後で解説されたのです。

もしかしたら、弟子でなくとも、イエス様にたとえの意味について個別に質問してきた人もいたかもしれません。でもイエス様はそのような人にもしっかりお答えになったことと思います。真理を知りたい、天の国のことを知りたいと切に思う心には神は必ず答えてくださる方です。

私たちが神の言葉を語るときも、たとえを用いるとその方にとってより分かりやすく印象に心に刻まれるのかもしれません。イエス様に倣うべきことの1つと思います。

今日の箇所では毒麦を撒く悪魔とそれによって育った麦のことを「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」と表現されており、「世の終わりにはこれらをすべて一掃する」と書いてあります。ここを読むと、今存在する悪の力も行いも、究極的にはすべて神の支配下にあることが理解できます。法とは十戒を含む神の律法のことです。「すべて神の支配下にある」というこの事実は、私たちにとてつもない平安を与えます。「神はかならず報いてくださる」という希望です。

現在日本をはじめ世界中で起こっている様々な不幸なこと、残虐なことに対しても、このフレームを通してある意味客観的に眺め解釈できるならば、いくら最悪の事態でも「神のみこころが行われるように」と、心から祈ることができます。

この麦のたとえの他にも信者はイエスの木に接ぎ木されるぶどうの木の枝に例えられたりします。信者は兄弟姉妹であり、みなイエスを通じて一体となってつながっている、という意味です。また神を信じる民は旧約時代より乙女とも表現されたイスラエルの民が神から愛され、守られ、諭され、警告され、時に懲らしめられてきたような、同じ道を歩みます。イエス様は人類において最も究極的な屈辱を十字架上で経験されました。このようにイエスの信者は一体どう歩むべきか、生きるべきかは聖書には宝庫として具体的に示されています。これからもしっかりと読み続けていきたいと思います。

~たとえを用いて語る~ [マタイ 13:34-35]

今日はたった2節の短い箇所ですが、濃い内容でした。

JR九州特急ゆふ』 昨日博多から久留米まで乗車。多くの観光客で込み合っていました

エス様は、前回から続くように天の国、霊的なこと、そしてこれから世に起こることをすべて「たとえ」を用いて群衆にお語りになり、「たとえを用いないでは何も語られなかった」と記されています。

この理由については「預言者を通じて言われていたことが実現するためであった」ということで、イエス様はこう述べられました。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

この、「預言者を通じて言われていたこと」とは、直接には詩篇78篇2章からの引用のようで、「わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。」になります。

エゼキエル書(17:2-3)にも、「(エゼキエルに対して)人の子よ。イスラエルの家になぞをかけ、たとえを語り、神である主はこう仰せられると言え。」とたとえで語りなさい、と神はエゼキエルに指示されています。

実際このエゼキエル書の箇所では、杉の木やぶどう、土地、商業地、大鷲、東風など、多くのたとえを用いてイスラエルの民に対し霊的なことや預言が説明されています。旧約の時代は神であるイエス様が預言者ダビデを通してこれらのたとえを語らせましたが、今回は直接イエス様が人間となってたとえを群衆に語っておられるだけで、語り手は全く同じであるため、当然同じ手法を用いたたとえ話でこの地上でもお語りになるわけです。

このことからも、イエス様がイスラエルの神、唯一の主であることを説明できる説得力のある1つの理由になるのだと思います。

もし偽物であったら、少しばかりちがう手法で群衆を説得していた可能性が高いです。

そういう意味で、旧約を含め生涯にわたり聖書通読を行っていくことの重要性を今日学ばせていただきました。

聖書デボーションをし、その研究を続けなければ今日よりもっとイエス様を知ることはできません。近道はないのだと改めて思いつつ、聖書により毎日新たなイエス様にお会いできることが、一番であり唯一の希望になっていることを感謝します。