Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~「天の国」のたとえ~ [マタイ 13:44-50]

前回は「毒麦」のたとえの種明かしをされた箇所でしたが、今日は「天の国」についてまた別のたとえを用い、イエス様が弟子たちに教えておられます。

「人が本当に大切なものを見つけた時は、人は自分の持っているもののすべてを売り払ってでもそれを手に入れたいと思うものだ」という内容です。大切なものの例として「畑の宝」「真珠」が挙げられています。このような宝石類はその名のとおり高価で価値のあるものです。その宝とは、「イエス様」というお方そのものである、と間違いなく思います。

生まれて初めてイエス様に出会った時の衝撃は、本当に「探し求めていたものに出会った!」という経験であり、以下のパウロのみ言葉が言い表している通り、その心情を見事に言い当てています。

主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。(ピリピ人への手紙 3:8 リビングバイブル)」

また後半には、網にかかった大量の魚のたとえがあり、前回の毒麦のように「悪い魚はより分けられて投げ捨てられる」という世の終わりに起こるお話も再度されました。イエスの弟子たちでさえ、それほどこの事を警戒しなければならない、ということかと思います。

本日の宝のたとえ、そしてパウロのみ言葉のように、心からイエス様を切望していなければ、イエス様もこの世の魅力的なものも両方求める傾向、すなわち「二心」に陥る傾向があるのかもしれないです。「自分の全てを犠牲にして(自分の十字架を背負って)イエス様に捧げる信仰」があってはじめてその宝を手に入れることが出来るのです。はっきりしています。宝の一部だけを買うことは出来ないのです。イエス様がこの宝のたとえと悪い魚のたとえを一緒に話されている意味も、もっと深く考えなければなりません。少しでも自分の心に二心の原因となる「偶像礼拝」があっては神様の目から見た良い麦、魚にはなれないのだと。ただただ主の主権の中で恵と憐みの中で生きることに喜びを感じ、100%満足できるか?それにかかっている気がします。そのように願い求められるよう、私には日々の祈りが必要です。