Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

~「毒麦」のたとえの説明~ [マタイ 13:36-42]

前回イエス様はこの「毒麦」のたとえを群衆にお話しされましたが、そのたとえは一体どういう意味だったのか?弟子たちは群衆を離れ、個別にイエス様と家の中に入った後に訊ねました。このようにイエス様は弟子たちにはそのたとえの意味を後で解説されたのです。

もしかしたら、弟子でなくとも、イエス様にたとえの意味について個別に質問してきた人もいたかもしれません。でもイエス様はそのような人にもしっかりお答えになったことと思います。真理を知りたい、天の国のことを知りたいと切に思う心には神は必ず答えてくださる方です。

私たちが神の言葉を語るときも、たとえを用いるとその方にとってより分かりやすく印象に心に刻まれるのかもしれません。イエス様に倣うべきことの1つと思います。

今日の箇所では毒麦を撒く悪魔とそれによって育った麦のことを「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」と表現されており、「世の終わりにはこれらをすべて一掃する」と書いてあります。ここを読むと、今存在する悪の力も行いも、究極的にはすべて神の支配下にあることが理解できます。法とは十戒を含む神の律法のことです。「すべて神の支配下にある」というこの事実は、私たちにとてつもない平安を与えます。「神はかならず報いてくださる」という希望です。

現在日本をはじめ世界中で起こっている様々な不幸なこと、残虐なことに対しても、このフレームを通してある意味客観的に眺め解釈できるならば、いくら最悪の事態でも「神のみこころが行われるように」と、心から祈ることができます。

この麦のたとえの他にも信者はイエスの木に接ぎ木されるぶどうの木の枝に例えられたりします。信者は兄弟姉妹であり、みなイエスを通じて一体となってつながっている、という意味です。また神を信じる民は旧約時代より乙女とも表現されたイスラエルの民が神から愛され、守られ、諭され、警告され、時に懲らしめられてきたような、同じ道を歩みます。イエス様は人類において最も究極的な屈辱を十字架上で経験されました。このようにイエスの信者は一体どう歩むべきか、生きるべきかは聖書には宝庫として具体的に示されています。これからもしっかりと読み続けていきたいと思います。