~たとえを用いて話す理由~ [マタイ 13:10-17]
今日の箇所は前回の「種をまく人」のたとえの続きからです。
弟子たちが、「どうしてイエス様は群衆に対してたとえでお話されるのですか?」と聞きます。イエス様の答えは、
「弟子たちには天の国の秘密を悟ることが許されているが、彼らには許されていないからである」「彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」
とおっしゃいました。
またイエス様は群衆のこの理解できない状態は、「彼らは目で見ることなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らをいやさない」というイザヤの預言の実現だといわれました。
この箇所を読んで私はすぐに自分の娘のことと重なりました。
私の娘も、親である父親や私の助言を聞いているようで聞いていません。心で理解していないので、悔い改めていないので、何度も同じことを繰り返し、そしてまた注意され、またそれを繰り返し…。こんな個人的な小さな経験ではありますが、神様の切実な思いがもしかしたら少しでも親としても経験できているのかもしれません。「どうしてこの子は理解できないんだろう…?」という、どうしようもなく気の遠くなるような虚しさに襲われることがあります。
でもその切ない思いは、実の子を愛しているからこそ、その愛が大きいからこそ、なんだと思います。そうです、イエス様も群衆を本当は狂おしいほど愛しておられるからこそ、反対にこのような悲しいお言葉を語られたのだと思います。
続けて、イエス様は弟子たちに「あなたがたの目は今見ている、耳は今聞いているから幸いだ。以前の多くの預言者たちはそれを見たり聞いたりできなかったからである」
と言われます。
弟子たちが今見ているものはもちろん受肉された実物のイエス様、聞いているものは神であるイエスから直接音声で語られるみ言葉のことです。預言者たちは旧約時代からずっとこのイエス様のことを指し示し、証していたのですが、それは受肉前だったので完全には理解できず、レンズがぼやけた状態で預言していました。群衆にもはっきりとは示されていませんでした。しかしイエス様のこの受肉により、隠されていた奥義が示され、天の国が近づき、預言者たちの言葉はイエス様の実際の行動や説教と重ね合わせることにより、よりクリアに理解できる状態になったわけです。
それなのに、
まだわからないのか?私がこの地上にきて、あなたがたのところに下ってきて、人々を癒し、たとえを用いて天の国のことを話していても、まだ悟らないのか?
このようなイエス様の、本当に切実な思いが伝わってきます。
神様は惜しみなく私たちに見せてくださいます、そして聞かせてくださいます。
しかし、理解したい、知りたいと願う心はその人次第です。
1人1人に自由意志を与えておられるからです。
今日も私たちが生かされていることそのものが神様のご臨在のあらわれであることを認めていくことが出来ますように。