前回までイエス様の本当に沢山のたとえ話が続きました。今日の箇所はそれをようやく終えられ、イエス様はナザレの故郷にお戻りになりました。
故郷の会堂で教えておられると、地元のナザレの人々はイエス様のことを「ただの大工の息子なのに、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」といった疑問を投げかけます。
確かに子供のころからイエス様の成長を見ている家族や故郷の人々にとっては、イエス様のことを自分たちと同じ一角の住民、兄弟、隣人、そして何よりも人間であると思ってしまうのだと思います。イエス様は30歳でこのような宣教活動を開始されたため、突然の変わりように驚きを隠せなかったのです。そして過去の彼らの記憶や経験により、イエス様を救い主として信じ、受け入れることがどうしてもできませんでした。
私たち信仰者もイエスの信仰に入った場合、これと同じような現象が起こります。家族や親戚たちはその中の1人が突然「イエス様を信じる」と告白した時、まるで自分たちとは違う、異質なものに所属したような感覚に陥り、その事実を受け入れることが難しくなります。
もう少し視野を拡大しても同じことが言えます。いにしえから聖書に精通している神の民であるイスラエルの教師・民も、多くイエス様につまずきました。聖書ではイエス様はそのつまずきを何度も預言しておられ、今日の聖書箇所にも次のように出てきます。
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」
この聖句は、逆を言えば、
ということも考えられます。すなわち、異邦人(世界の人々)が神であられるイエス様を敬うようになる、ということです。
今、本当にそうなっています。世界中の人が国境や文化、民族を越えてイエス様を信じ、救い主として受け入れています。
信仰に入った人にとっては一番救われてほしいのは一番近しい、愛する家族のはずです。私もそうです。でも今日の箇所を読んだようにその難しさがあり、それはイエス様も認めておられる点です。
しかし、それでもその大きな、びくともしない山を乗り越え、それを可能にしてくださる全能の神様にそのことを委ねます。彼らの内に奇跡を行ってくださることを願い求めていきたいと思います。