Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

祈るときには ~赦される者の祈り(Forgiven)~  [マタイ 6:12, 14]

次にイエス様は「赦し」について祈りなさい、とおっしゃいました。14節では「もし人の過ちを赦すなら天の父もあなたを赦し、もし赦さないなら、天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とあります。私ははじめこの祈りの聖句を聞いた時、自分次第なんだ・・という印象を持ちました。「クリスチャンなんだから、頑張って人を赦さなければならない。そのことで相手にはじめて愛が伝わるんだ。そうしたら天の父が喜ばれ、報いていただける。」しかし、日常生活で人を赦す、特に職場などで不条理に攻めてきたり攻撃してくる人を赦す、親に反抗する娘に苛立たず赦す、なんて到底できることではありませんでした(赦したふりさえするのも不可能でした)。

でもある時牧師先生からとある女性についての説教を聞く機会がありました。嫉妬心のため同僚に顔になんと硫酸をかけられたその美しい女性は、長い間憎しみの意に駆られていました。しかし「(神様に)赦される必要があるのは(加害者でなく)、まずこの私だったんだ」という事に気づいたのです!罪人である私がまず赦されなければならない、と気づいたのです。それから彼女は神様に罪を赦された喜びと癒しをもって、その同僚を赦し、また奇跡的に愛することができ、最終的には一緒に住むようになったのです。私はこの証を聞いてこの聖句の意味をようやく理解し始めました。なんと深い意味なのでしょう。どんな人でも、まず赦される必要があるのです。全治全能の全てをお知りになる神によって。そして神からの赦しの力と経験によって、人は奇跡的に心から大きく変えられるのだということです。

ではどうして「罪」を赦されることにこんなにも喜びが伴うのでしょう。それは恐らく、人生の道のりを振り返った時、罪の力がどんなに自分を苦しめ、蝕んでいたことを聖書の御言葉や物語によって知り、実生活でも身をもって経験したからだと思います。神様そのものをあらわす「十戒」に背くという罪を犯した時、その罪により人には苦しみが生じることを経験として実感した時、また罪という自分を縛っている強力な鎖からの解放が、ただ神の赦しの力、イエスの十字架の血潮によって与えられるのだと悟り信じた時、この証の女性のように本当の心からの深い悔い改めが与えられるではないでしょうか。聖書に出てくるマグダラのマリアのように。

このように「まず神からの赦し」→「罪からの解放」→「人に対する赦し」は一連に密接につながっている事を今日改めて学びました。主の祈りは何と深いのでしょう。これはまさしく救いの流れであり、この祈りに含まれていた意味なのです。次の聖句ともまったく重ね合わさります。私たちは神に赦されれば赦されるほど、人を赦し、愛することが出来るのです。

 

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。(ルカ7:47)