愛も試練も物質的な必要も、日々全てを与えてくださる与え主である神様に対し、私たちが出来る最も大切な事の1つは、今日の聖句のように「信じて求める(祈る)」ことなのかなと思います。
例え極悪人でさえも、親子の愛で自分の子供には良いものを与えるのを私たちは知っています。「愛の神様が私たちに必要なものを与えてくださらないわけがない」ことを信じて、祈るのです。
イエス様はこの箇所では2度も繰り返し強調し、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。」と私たちを励ましてくださっています。
ただ、自分が一体何(What)を求めているのか、自分でもよくわからない時があります。
そういう時は私の場合、人間関係でストレスを溜めていたり、(神様以外のこの世の)何かに恐れを抱き必死でそれを解決しようとしている時だったり、孤独を感じた時だったりします。何かその問題に無意識にも心がすっかりそれに支配されている時です。そしてさらに悪いことには、それに大きく支配されていることすら、自分でもわからないことがしばしばであったりします。
聖書で言う罪に侵された「病気」の状態とは、こういう状態なのかもしれません。本人にとっては本当に苦しい時間となります。
でも最近、この状態がまさしく罪の状態であることに気づき、速やかに大医者であるイエス様に「助けてください」と求めるようになりました。自分でも苦しいのだけれど、どこをどう治したらわからない状態。「罪の告白をしなさい」というけれど、何を告白してよいかさえもわからない状態の時にこそ、イエスという駆け込み寺があることは、なんという祝福なのかと思います。そしてそこにそのまま裸で行きさえすれば、確実にイエス様から病気の診断と治療、癒しが施され、回復時の慰め、罪の傷が徐々にいやされていきます。重苦しい心の霧や靄のようなものがすっかり取り除かれた事が本当に実感できるのです!この時はじめて、何(=What)を求めていたのか?の答えが与えられます。「私は神様から癒されることを求めていた、必要としていたのだ」と。
私たちはみな、癒される必要があるのです。
このように苦しみの後の真の癒しと答えが与えられて初めて、次に続くイエス様の聖句「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ができる人になるのかなと思いました。
真の癒し主である主に感謝し、今日も歩んでいきたいと思います。