Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

山上の説教 – 「義のために迫害される人々は、幸いである。」  [マタイ: 5:10-11] 

時がたつのは早いものでもう9月も終わり、10月から第四四半期でもう年末のことを考える時期がやってきます。

今日は「義について迫害される」ことが「幸い」であるという非常に驚くべき聖句です。私たちが世からイエス様のために迫害を受ける時、喜びなさい、大いに喜びなさい。と、「幸いである」のあとにこの「喜びなさい」が2度も続き、さらに2度目には「大いに喜べ(be exceeding glad)」と強調表現までつけられています。聖書では何度でも繰り返されることは重要であると言われています。どうしてこんなに迫害されることが幸いで祝福なのでしょうか。

最近、よく朝の祈りの会などで、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」と本日の聖句にあるような迫害や叱責を受けた、という証が聞かれます。もちろんクリスチャンでない方も上からの権威や圧力、家族の間などで虐げられ苦しんでいる人がこの世では大勢います。しかし、ここでいう迫害は、「私のためにののしられ」と聖句にあるようにエス様を証したために世からののしられる、という事です。おそらく朝の会で証をした方はイエス様の香りを周囲に放った結果、周りの人がその証人を通してイエス様を不意に見、すなわち世に支配されている魂が世とは異なる魂に出くわし、自分の固く信じているものが色褪せて見えたそのとき、その人は怒りや苛立ちによって、その証人を迫害したいという思いに駆られたのかもしれません。イエス様を迫害したパリサイ人のように。世の権威や会社の上司、親ではなく、イエス様とその義に絶対の権威を置いている人物をみた瞬間、迫害がはじまるのかもしれません。エステル記に出てくるハマンのように。

このように関節と骨髄とを刺しとおすようなイエス様の霊に出くわした時、世の魂からの迫害が起こるのです。クリスチャンから真実の証が発せられたときに。この瞬間が神様の言われる天での乗算レベルでの祝福です。ですので、クリスチャンはイエス様の証によって、また伝道によって世の人から迫害されるのは必然的なのです。非常に辛いですが迫害されている事こそがその証が真実である固い証拠となります。伝道した後、その家族や友人とすっかり疎遠になってしまった、という現象も同じかもしれません。人間的に考えると悲しい分断となります。しかしイエスさまはその時にこそ「大いに喜びなさい」と力強く伝道の働きを励ましてくださるのです。

迫害されたり拒絶されたりの連続であれば苦しくなり諦めたくなるのかもしれません。私はまだまだそのレベルに到達していません。歴代の預言者がそうであったように、「たとえ迫害にあっても1人でも多くの方に神のみこころを伝え伝道を行いたい」と心底から思える勇気、希望、思いがイエス様から多く与えられることを切望する事から祈り始めたいと思います。