クリスチャンは塩にたとえられます。塩はもちろん料理をおいしくするものですから、人々の幸福のために働きなさいという聖書の教えです。また行動だけでなく、その人のことを思って発言する塩で味付けられた言葉も大切です。また塩には清めの意味があり、相撲競技などでも用いられています。世の中を清める働きに携わりなさい、ということです。
ただし、塩の味が薄くても、あるいはしょっぱすぎても人々には嫌がられます。ちょうどよい「塩梅」が大切ということです。これは自分の子供に対して特に思うことです。ちょうどよい塩梅に味付けられた親の言葉と行動というのは、かなり難しいものです。時には甘く、時には厳しすぎて、おふくろの味がいつも違ったものになってしまっています。しかし先日の証にも書いた通り、やはり相手のことを心から考えていれば、愛を土台にした言葉であれば、よい塩梅の言葉が出てくるのかもしれません。
次にクリスチャンは世のともし火であるということです。イエス様の光=聖書の真理の光を自分という器を通じて隣人に照らしていくような働きをしなさいということ。闇の中は真っ暗で何も見えないので必ず光が必要です。悪の勢力に支配されているこの真っ暗な世の中では、もちろん今の日本においても、この世界のどこにおいても光が切に求められている、いうことです。
その事は頭では十分わかっているものの、では今日そのともし火を置く燭台はどこにあるのか?どうやって置けばよいか?がわからないとき、私自身の葛藤があります。教会員一人一人が燭台の上にともし火を置かないと、結果的には教会全体としても全く光を放つことができないと思います。具体的には神様の栄光をあらわす福音伝道の働きがなされない、ということです。こんなに悲しすぎることはありません。イエス様が「福音を全世界に宣べ伝えよ」とおっしゃったのですから。それが出来ていないのは大変悲しいことであります。
それでもこの思いをそのままイエス様に打ち明け、「どうぞ今日、あなたのともし火で闇を照らすことができますように。そして燭台はどこにあるのか教えてください。ともし火を升の下に置いたままにしないでください。」と心からお祈りしたら必ず神様はその願いを聞いてくださり、そうしてくださると信じます。
今日もよい塩梅で味付けられたマタイの聖句をイエス様とともに学べたことに感謝です。
以下、エレンホワイトの証の文から世の光ついてはっとさせられた言葉も引用します。
真理のことばを示すものは、われわれの実際の敬虔さである。矛盾のない生活、きよい行状、変らない誠実、積極的で情深い精神、敬虔な模範——こうしたものが世に光を伝える手段である。
エレン・G・ホワイト 各時代の希望(中巻)p22