Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

山上の説教 – 「心の清い人々は、幸いである。」  [マタイ: 5:8]

「心の清い人」と聞くと、このような聖句を思い浮かべてしまいました。「次のように書いてある、義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。(ローマ3:11-12)」神様から見て、もともと罪を犯しやすい性質をもつ、弱い私たちです。もちろん聖霊様により聖書のみことばを悟り、信仰が与えられることによってのみ、私たちは心の向きを変え、心も身をも清く(Pure in Heart)されることが出来ます。「この人は清い」と最終的に神様に判断される時というのは、もしかしたら聖書にある神様の掟が明瞭に与えられたとき、その掟に疑う余地なく忠実に従えることが出来たときなのかもしれません。

この「清い」については、旧約聖書に出てくる例がいくつかあると思います。すぐ思いつくのはナアマン将軍の話(列王記下5章)。彼は皮膚病が癒されるため「ヨルダン川に7回浸かって身を洗いなさい」という預言者の命令に、はじめは全く信じられなかったけれども最終的にはその命令を受け入れ、行うことにより100%癒していただくことが出来ました。ナアマンの皮膚は何と“小さい子供の皮膚”のように清められましたが、同様に信仰をつかみ取れたその心も清められ、神様の御前に「清い」と認められたはずです。

「清い」の真逆の例としては、大祭司アロンの息子たち2人が主の命じられたものではない規定に反した炭火を主の御前にささげた瞬間、主の御前から火が出て2人を焼き、彼らは主の御前で死んだ、という恐ろしい話があります(レビ10:1-2)。この例を見ると何と厳格な神様なのだろう…と思ってしまいますが、それだけ神の掟の光を与えられ聖所の儀式を司る者たちの責任はとてつもなく大きく、また、いかに神様ご自身が清さ(聖なること)をお求めになっておられるかを改めて知ることが出来ます。聖所は神様のご臨在があり、最も神様に近い場所です。神様に近づく者にはこの「清さ」が求められるのです。だから「心の清い人々は、神を見る。」なのだと思います。

神様の求めておられる「清さ」のレベルは私たちの想像をはるかに超えるものだと思います。私にはまったく自分を清める力がありませんがひたすら聖書の掟を正しく理解し、それを信じ、行っていけば神様の清さに日々近づけると信じます。今日与えられたみ言葉に感謝します。