今日からはいよいよイエス様の山上の説教が終わり、冒頭はイエス様とともに民衆が山を下るシーンから始まります。
この説教を聞き終えた後の民衆の驚きと感動が目に浮かびます。「今までの権威者とは違っている」と誰もが認めたのです。大勢の群衆は説教が終わった後も、イエス様の行くところにずっとついていき、その教えを一滴も取りこぼしたくない、従いたいという心が与えられました。
そんな最中、突然全身皮膚病の人がイエス様に大胆に近づき、「主よ、御心ならばわたしを清くすることがおできになります」といったのでした。当時、ユダヤ人の間では病気はその人の罪の結果である、と教えられており、また皮膚病の人は物理的に隔離されなければならない、という清めの教えもあったので、その人がイエス様に近づいた時の民衆の「非常に怪訝そうな顔」は容易に想像できます。この人がいつどのような時に皮膚病にかかったかについての詳細は書かれていませんが、そのような差別的に相手をみる顔つきに囲まれながら、絶望的な人生を送っていたのです。しかし、イエス様の反応は全く違いました。直接触れると皮膚病が感染するかもしれないというリスクなど顧みず、優しい眼差しでその患者を憐れみ、手を差し伸べてその人に触れたのでした。そしてこうおっしゃいました。「よろしい。清くなれ」。するとなんと、彼の皮膚病はたちまち癒され、元の皮膚のように清くなったのです!こんなわかりやすい「しるし」を彼も、その場にいた民衆も直撃したのでした。人々の心を変えてしまったイエスの大説教の直後、この奇跡のしるしを見せられた人は、イエス様が「天の父から送(贈)られた本当の救い主」であると信じないことなど、出来るでしょうか?
皮膚病を癒された彼は、イエスの説教内容が自分を差別していたユダヤの権威者のそれとは全く正反対の権威、目的、ゴールを持っていることを理解したため、自分の今のおかれている現状に対し、一筋の希望が持てたのではないか、と思います。ですから、イエス様に罪悪感以上の希望と勇気をもって近づき、大胆にも「あなたなら清くできるはずだ」と確信を持って言えたのだと思うのです。イエス様が彼をお褒めになったように、本当の信仰が芽生えた人、岩の上にそれが定着した人には必ずこのような行動が伴う事が改めて分かります。
また彼は「イエスは自分の内面の心をも清くすることがおできになる方」だと悟ったに違いありません。イエス様にはそれが可能だからです。体のみならず心も病気や罪の影響でがんじがらめになっている人類を、清めの回復に向かわせてくださるのは、私たちの救い主、イエス様だけです。今日もその事に感謝して生きてきたいと思います。