Latter Rain-日記

My Daily Devotion ~神様をもっと知り、神様との関係を日々深める~

誓ってはならない  [マタイ: 5:33-37] 

今日は「誓ってはならない」という難しい箇所です。このみ言葉は知っていましたが今まで自分の中でこのみ言葉をよく吟味できていませんでした。「誓う」場面というのは結婚式や試合の時に「自分の意思や精神が清く正当なものであることを、神の前で、あるいは家族や大衆の前で約束します(誓います)」という意思表明です。しかしイエス様は「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃっています。神の御座がある天によってはもちろん、神が創造されたこの地によっても、神の神殿であるエルサレムという場所によっても、自分の頭にかけても誓ってはならないのです。自分の頭の髪の毛一本すら、白くも黒くも自分ではできない、そのような神の領域、支配が及ぶところによって人間には誓う権限は与えられていない、とおっしゃっているのです。

「誓う」という行為は、自分の意思や動機の正しさを相手にわかってもらうための手段として、信頼を築くという意味で前向きな行為であると思います。テレビ中継で高校球児が「正々堂々と戦うことを誓います」と宣言しているのを聞くと、とても健気でありすがすがしい気持ちになります。しかし神様はこのような誓いではなく、権力者が無理矢理弱い立場の人々に行わせていた神への「誓い」(義務や律法などをコミットさせる)に焦点を当てておられるのではないか?また神という絶対の存在に誓ったはずなのにそれを実行できなかったことを強く責め、裁く手段として誓いを用いていたのではないか?このように「誓いを」悪用していたユダヤの指導者たちへまずイエス様は叱責をされたのではないか?と考えました。そうなると、その指導者たちの行為は明らかに十戒3条 「主の名を、みだりに唱えてはならない」の違反に該当すると思います。

そもそも全てのことは全て神様によってご支配されています。当然ながら人がどのような強い思い、純粋な思いで誓ってもそれが実行される場合と、されない場合があります。全ては神の御心であり、神の御手に委ねられているからです。そのため、「私の意思がなりますように、かならず私はやりとげます」というコミットを含む思い、願いは人間的には美しいですが、聖書的ではないのだと思います。

エス様のゲッセネマでの祈りが心に浮かびます。イエス様は、天の父に十字架にかかることをご自身が誓われる祈りではなく、御心を求める祈りをされました。

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。“わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。”」(マタイ26:39)